呉の武将
(りょもう しめい)178年-219年呉の武将の中でも一、二を争う猛将であったが、教養は全くといってよいほど無く「阿蒙」と呼ばれていた。このため、必死に武芸の稽古から勉学に切り替え、魯粛は呂蒙を「呉下の阿蒙に非ず」と評し、自分が亡き後の大都督に指名した。関羽を討ち取ったことで有名だが、関羽の亡霊に取り憑かれ、体中の穴という穴から血を吹いて死んだという。
(しゅうゆ こうきん)175年-210年呉の孫策・孫権の軍師・大都督。妻は絶世の美女小喬。若くして立派な風采を整えていたので美周朗と呼ばれた。諸葛亮に翻弄され続ける生涯で、策を全て見透かしてくる諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル心を抱き病に倒れる。臨終の際、諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという哀れな最期を遂げる。
(そんけん ちゅうぼう)182年-252年呉の初代皇帝大帝。呉の礎を築いた父孫堅、「江東の小覇王」と恐れられた兄孫策の遺志を継ぎ、わずか19歳で呉の盟主となる。三国志の中では、曹操、劉備に比べるといささか印象が薄く、おっちゃんくさいイメージがある孫権だが、3人の中でも一番思慮深く、外交策に長けており、偉大な現実家だった。呉を繁栄させた能力は侮れない。


















